昨年二回、わたしは死ぬかもしれない、と思うことがあった。
一度目は、マスキン水に対するアナフィラキシーショックで、救急病棟に運ばれたとき。
急に胸のあたりがしびれ、息が苦しくなり、血圧も下がっていくのが感じられて、「どうなるんだ、私?」と思った。
幸い、総合病院にいた時に起こったので、すぐに処置してもらえて助かったのだけれど。
二度目は、右足の切断手術の前夜、全身麻酔について説明した書類を読んだ時。
それまで足を切ろうという人間のわりには、だいぶのほほんとしていたのだけれど、
全身麻酔はそれなりにリスクがあり、運が悪ければ死ぬこともあるのだと知って、けっこう怖くなった。薬品が原因のアレルギー・ショックで死にかけた後で、薬品に対する人間の体のもろさが身に染みて感じられていた頃でもあった。
そういう経験をすると、人は自分の人生を記しておこうと思うものなのかもしれない。
すごく珍しいというわけではないけれど、どうやらありきたりとも言えない、ささやかな体験と思考の軌跡を。
そもそも、今の私が経験している40代後半というのは、けっこう微妙な年齢だ。
ロシアではもう何人か、私と同じぐらいの年齢の友人がこの世を去っている。
しかもその大半は「突然に」だ。
その多さは、40代の終わりは、現代の厄年なんじゃないかと思われてくるほど。
そんなこんなで、今のうちに書けることを書いておこう、という気持ちが生まれ、そこに編集を担当してくださった方の要望も働いたため、今日発売される拙著『シベリアのビートルズ イルクーツクで暮らす』には自叙伝的な要素がけっこうある。主旋律はスラバの人生で、それそのものもすごく波乱に富んだものなのだけれど、そこに私の人生の軌跡もいくらか織り込んでみた。
今のロシアを取り巻く情勢は恐ろしく不安定なものだから、いつ何がどうなるかわからない。記せることはできる限り記しておこう、という気持ちも働いたように思う。
記憶の隅々に意識をいきわたらせ、とても古い友人や時代のことなども懐かしく思い出しながら書き記したものが形になった今、強く湧いてくるのは、本書に直接、または間接的に登場してくれた恩師や友人たちに対する感謝の気持ちだ。
たいへんなこともたくさんあったけれど、いろんな人にいい刺激をもらい、支えてもらい、導いてもらった。本当に感謝してもしきれない。
心からどうもありがとう。
そして、生まれたてのこの本が、いい縁に出会い、誰かに何らかのいい刺激を与えられることを、心より願っています。