イルクーツクの風の音 

ロシアの中部、シベリアの南、ヨーロッパ文化の辺境、アジアの片隅、バイカル湖の西にある街を拠点にしている物書きの雑記帖                  written by Asami Tada ©2020多田麻美

遠くて近い国で起きた痛ましいこと

先日起きた、トルコとシリアの大地震の被害規模が、

だんだんと明らかになっている。

死者の増加ぶりには、目を覆いたくなる。

私などにできることは限られているけれど、

少しトルコにまつわる思い出を共有することで、

トルコを身近に感じる人が増えてくれれば、と思う。

 

じつは私は学生時代、トルコにひどく憧れ、

訪れてみたいと強く思っていた時期があった。

ユーラシア大陸の言葉ならぜんぶ学んでみたいという、

実現するはずのない、誇大妄想的な夢を抱いていた時期のことだ。

 

結局のところ、ロシア語と中国語以外は三日坊主で終わったのだが、

トルコ語はちょっと例外で、大学の授業のほかにも、

外大で真夏に学外の学生を対象に行われた特別集中講義を受けた。

一カ月ほど大阪の梅田に通ったのだが、

真夏の大阪の暑さは、京都とはまた別の暑さだったので、

今でもトルコ語というと、大阪の街中のもやっとした暑苦しさが思い出される。

 

一方、通っていた大学のトルコ語の授業も、親しみやすいものだった。

トルコ語会話の授業を受け持っていたトルコ人の先生が、

受講生たちを家に呼んでケバブをおごってくれたのが、懐かしい。

私が当時すでに創建80年を超えていた吉田寮に住んでいると知ると、

先生は「本当に住めるの!あそこ!」と大げさに驚いていた。

 

一カ月やそこらで一つの言語をマスターするのはもちろん、難しいわけだけれど、

授業は、初心者でも親しめるよう工夫されたものだったので、

「マスターできそうな気持ち」にはなることができたし、

トルコ語の文法構造が日本語と近かったり、

一部の単語の音が日本語に近いということを、

実感とともに知ることができ、

トルコ語の豊かさとまではいかなくても、

未知の、あまり知られていない言語を学ぶ面白さは感じ取れたような気がする。

 

結局ものにはならなかったのだから、同じ専門外のことでも、経済や国際関係など、

現代社会を理解するために直接役立つことを学べばよかったのに、

と思わなくもないが、

当時の私は、言葉のアンテナを一生懸命張っていたのだから、しかたない。

手に入るトルコ音楽の音源が少ないことを残念がり、

トルコ行きの航空券が最安でも、往復で12万円以上かかることを、

悔しがっていた。

半額だったら、間違いなく飛んでいただろう。

 

結局トルコ行きは実現しなかったが、

トルコ語を学んだ時間はまったく無駄でもなかったと、今は思う。

日本語の「良い、いい」は、トルコ語でも「イー」だ。

世界は狭くなったようでまだまだ広いが、

目に見えない線やリンクでいろいろとつながっているのかもしれない。

そんな感覚をもてる場所、

遠くても近いように感じる場所は、一つでも多い方が楽しい。

 

でも、今回の地震は親近感がショックの大きさにつながり、

ただでさえ戦争のことで気持ちが落ち込むのに、

地震まで重なって、何だか心がうろうろしてしまう。

シリアの状況など、悲惨すぎて心が逃げたくなってくる。

 

じつは偶然だが、トルコで地震が起きた頃、

私はあるお店で防災グッズを眺めていたのだった。

それは恥ずかしながら、限りなく「人生で初めて」に近いことだった。

かつて四川大地震が起きた時も、北京にいながら、

震災が発生した瞬間、ものすごくいやな感覚に襲われたのだが、

虫の知らせってほんとうにあるらしい。

 

第六感のレベルでも、実際の見聞のレベルでも、世界は教えてくれる。

信じていた世界は明日にだって、それこそ一秒後にだって、崩れるかもしれない。
一瞬一瞬を大切にするべきだ、と。

 

被災地で一人でも多くの命が助かるよう、心の底から祈ってやまない。

そして、被災した方々に、

衣食住に不安がなく、かりにほんの少しでも幸せを感じられる日が、

一日も早く訪れますように。

想像して、心で切に願うことしかできないけれど。

しないよりはいいはず。