イルクーツクの風の音 

ロシアの中部、シベリアの南、ヨーロッパ文化の辺境、アジアの片隅、バイカル湖の西にある街を拠点にしている物書きの雑記帖                  written by Asami Tada ©2020多田麻美

個人、集団、そして個人 その1

 

人種差別に抗議する声が、今世界中で高まっている。

日本ではあまりピンとこない人も多いかもしれない。

問題の根底にある、白人優越主義と黒人という構図は、

日本ではほとんど目立っていないから、当然だ。

 

自分が肌の色で差別されたことがなければ、

差別される側の立場や苦労を自分の事のように感じることは難しい。

それはある意味、幸運なことだろう。

だからそういう人は、無理に一緒に抗議の声を上げるよりは、

知識を通じて問題の性質を理解し、今後、「知らなかった」ことによって

他人の権利を侵害しないよう、努めればいい。

 

だが、実際は海外、とくに欧米で暮らしたことがある日本人なら、

黒人が差別意識によって殺される、という事件を耳にして、

多かれ少なかれ、何か自分にも響くものを感じるはずだ。

欧米に住むアジア系住民が、新型コロナの感染源というレッテルを張られ、

露骨な差別を受けている、とされる昨今なら、なおさらだろう。

 

私がかつてアジア系住民として住んだ1980年代のアメリカは、

今よりずっと「助け合いながら共存しよう」という理想が輝いてみえたとはいえ、

現実の方はまだまだ厳しかった。

 

まず、白人の住む地区と黒人の住む地区がわりとはっきりと分かれていて、

私が住んでいたのは白人がほとんどを占める地区だったので、

通っていた学校でも一人しか黒人を見かけなかった。

私はその黒人の男の子と同じスクールバスで学校に通っていたのだが、

彼はとてもパフォーマンスが得意だったので、

バスの中でしょっちゅう、それを披露してくれた。

体中を楽器のようにリズミカルに叩きながら、

じつにカッコよく踊ってくれるのだ。

それを見るたび、私は「何てリズム感覚がいいのだろう」と心から感心した。

車内で拍手が起こると、彼はとても得意げだった。

 

後で思えば、そのようにしばしば才能を披露していたのは、

彼なりの自己防衛だったのかもしれない。

でも、当時はマイケル・ジャクソンの人気がまさに最盛期だったので、

彼自身も流行をとらえつつ、心からパフォーマンスを楽しんでいるように見えた。

そういった屈託のない爽やかさも、彼のカッコよさにつながっていたと思う。

 

80年代当時、私の目から見てむしろ大変そうに見えたのは、

東ドイツなどの東欧からの移民だった。

外見上は溶け込みやすそうに見えるのだが、

実際はなかなか環境になじめないようで、

いつも浮いていた。

イランから来ていた子なども、大変そうだった。

私は、いつもどこかで彼らのことが気になり、

もっと仲良くなりたいと思っていたのを覚えている。

 

もちろん、すでに分別らしきものもいくらかあったその頃の私に、

「偏見をもたず、どんな人にも良い点を認め、仲良くしなければいけない」、

という建前めいた気持ちが微塵もなかったとはいわない。

そもそも、自分もアジア系住民として学校などで浮きやすい存在だった。

だから無意識のうちに、「差別はされたくない。だから自分からも差別はしないようにしよう」

という気持ちを抱いていたように思う。

 

実際、2年後くらいに日本人の女の子が一人、入ってくるまで、

私の通っていた中学校には私一人しか日本人がいなかった。

そもそも、私以外のアジア系の生徒もごくわずかで、

同じ学年に華僑の出身の子が一人、

上の学年に朝鮮系アメリカ人が一人いただけだったように覚えている。

 

そういう背景もあって、同じく「一人しかいない」出身の同級生に、

自然と親近感を覚えていたのだろう。

そして、孤立しながらも頑張る彼らの姿に、励まされもしていた。

 

周りから認められるように頑張らねば、という意識は、

当時からかなりマイペースだった私にも、ある程度はあった。

そもそも、私が住んでいたデトロイトには、

全日制の日本人学校がなかったので、

授業の内容が分かろうと分からまいと、

現地校で各学年を順調に終えなければ、

小学校や中学校の卒業証書さえもらえなかった。 

これは子供心にもちょっと怖かった。

 

差別されないように努力することは、

自分の居場所をちゃんと得るためにも必要だった。

 

今はどうか分からないが、

その頃のアメリカでは、子供、とくに男の子の世界はとてもシビアだった。

つまり、言葉も勉強も分からない子に対して、周囲の目はけっこう厳しかった。

その厳しさに打ちのめされ、帰国してしまった日本人の男の子もいた。

 

程度の差こそあれ、日本人の女の子だってそう楽ではなく、

英語でしゃべるのが苦手だった補習校の同窓生について、

「ピアノが上手だと分かったとたん、

それまで冷たかったクラスメートが親切になった」

という話を聞いたりもした。

その時私は、「じゃあ私はどうすればいいんだ」と頭を抱えた。

自分は英語もピアノも下手くそで、上達はカメの歩みだったからだ。

 

(次回に続く)