イルクーツクの風の音 

ロシアの中部、シベリアの南、ヨーロッパ文化の辺境、アジアの片隅、バイカル湖の西にある街を拠点にしている物書きの雑記帖                  written by Asami Tada ©2020多田麻美

猫が飛ぶのも懐次第

現在、ロシアに入国する日本人が、

許可なく自由にロシアに持ち込める現金は、各自10万円相当までである。

イルクーツクに半年弱は住みたいと思っているフリーランスの私たちにとって、

これはかなり厳しい条件だ。

 

もちろん、経済制裁の影響で、日本からロシアへの送金はできない。

つまり、私がいくら日本語で原稿を書いたり翻訳をしたりしても、

その収入はこちらに送れない。

となると、私たちにとっては、景気の良くない現地で絵を売るか、

副業をするしかない、ということになる。

 

そういう厳しい状況で、もう一つ立ちはだかる課題が、

ガーニャの日本行きの準備だ。

 

昨年、チップの挿入、寄生虫検査、二度の狂犬病ワクチンの接種という、

それだけでも面倒でたいへんな過程を経て、

やっとたどり着いた、抗体検査。

 

それは準備全体の前半部分のうち、最大の難関だった。

というのは検体を、鮮度を保ちながら、

モスクワの検査機関に送らねばならなかったからだ。

だいたい、まず送り方を知るために、右往左往した。

 

やっとのことで、大きめの魔法瓶に氷と検体を入れ、

検体の抽出直後に血液輸送専門の輸送業者に家に来てもらえばいいと確認。

もっとも、経済制裁で血液を送ることのできる輸送会社が限られている上、

鮮度が落ちぬよう、限られた時間内に5000キロ先のモスクワまで運ぶのだから、

当然、輸送費はたいへん高い。

 

しかも、輸送業者が自宅に集荷に来られる時間にはかなりの幅があるので、

動物病院から自宅に戻る前に来られてしまうと、すべてが無駄になる……

そういう、ハラハラドキドキ、お財布大ピンチの過程を経て、

やっと検体を送った後、返ってきた答えは……

 

二回必要な狂犬病予防ワクチンを、一回しか打てていないので、

抗体検査の結果は必要な基準を満たさない、というもの。

 

二回目は、間違って別の注射(といっても無害かつ必要なもの)をしていたらしい。

私も病院二か所も、その勘違いに気づかぬまま、抗体検査を依頼してしまったのだ。

つまり、一回目のワクチン接種から後に行った準備はすべて「水の泡」に。

 

ガーニャにかけたストレス、そして膨大な手間と時間とお金が無駄になり、

思わず頭に浮かんだのは

「三歩進んで、二歩下がる~」というメロディ。

昭和生まれなので、ここで頭に響くのはもちろん(?)

水前寺清子さんの声である。

ほんと、しあわせは歩いて来てはくれず、

汗かき、べそかき歩かなくてはならないのだ。

 

さあ、気を取り直して、今回の滞在中こそはぜひ

三歩目まで進まねば、と思っていたところ、

はなから、くじけそうになった。

狂犬病のワクチンが、経済制裁のあおりで、

先回に輪をかけて希少になっていたのだ。

 

なじみの病院にはなかったので、

ネットで見つけた動物病院をリスト化し、片っ端から電話をかける。

「狂犬病のワクチン? もう何カ月も入ってきてないよ」

といった答えに泣きそうになるが、4軒ほど当たった後、

ちょっと遠方にある病院から「ある」との返事。善は急げとばかり、

ガーニャを連れて駆け付ける。

すると、これまた難関が。

 

提示されたワクチンの価格は、日本円で1万円を超え、

一回目に接種した時の3倍以上だったのだ。

 

ガーニャには悪いが、正直、かなりひるんだ。

なぜなら、頼みの綱の絵の代金はまだ入ってきておらず、

提示された額を払えば、手持ちの金が半分以下になってしまう上

この手順の後にも、検体の抽出と送付と検査という、

この倍以上、お金がかかる準備があるからだ。

 

ふと、「諦めるなら今だ」という思いが頭をよぎる。

 

接種を前に、慣れない場所で途方に暮れているガーニャ。

この時は、飼い主も彼に負けないくらい、途方に暮れていた……

 

そもそも、もし戦争状態が完全に終わり、

経済制裁が解除され、ロシアの景気がもっと良くなれば、

私たちがもっと長めにロシアに住むことも難しくはなくなり、

ガーニャの移動の必要性はぐっと低くなるのだ。

 

先が読めないことは、それだけでつらい。

心理的にも、経済的にも。

日中戦争や文革について以前、考えた時も思ったが、

世の動乱の渦中にいる人々には、動乱そのもののつらさに加え、

それが「いつ」「どんな形で」終わるか、

まったく分からないというつらさがある。

 

先行きの見えない時にできる、せめてもの準備は、

可能な限り、選択肢を確保しておくこと。

 

ここまで来たのだから、やはり前に進もう。