イルクーツクの風の音 

ロシアの中部、シベリアの南、ヨーロッパ文化の辺境、アジアの片隅、バイカル湖の西にある街を拠点にしている物書きの雑記帖                  written by Asami Tada ©2020多田麻美

パスハの後の気づき

先日、4月19日は、ロシアの復活大祭、「パスハ」だった。

東方正教会以外のキリスト教やユダヤ教では、

4月12月が復活祭、つまりイースターだったのでちょっとややこしいが、

これはロシアの東方正教会が別の暦に基づいて祭日を決めるためらしい。

 

今年は、だいぶこちらでの生活に慣れてきたこともあり、

私も少し、パスハの風習を実践してみた。

まずこの日、人々は

「ハリストス復活!」

「実に復活!」

という挨拶を交わす。

そこで、私も倣ってご挨拶。

 

食べ物に関しては、まだまだこちらの伝統的な食卓はまねできないが、

やはり伝統に従って、クリーチという甘い筒状のパンや、

ゆで卵に色や柄をつけたものを飾ったりしてみた。

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卵に飾りをつける風習は、昔ミシガンに住んでいた頃に楽しんだ記憶もあり、

かねてから、とても楽しみにしていた。

そこで今回はスーパーで売っていたお手軽キット?を使ってチャレンジ。

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絵の描かれたセロファンをゆで卵に巻き、

沸騰している湯に3秒浸けると、

あっという間にセロファンが卵にくっついて、

花柄の卵が出来上がる、というもの。

何だか食べ物に見えないし、

あんまり簡単すぎて、ズルしている気持ちにもなったが、

からくりは面白い。

 

ちなみにこちらでは、パスハの卵を食べるさい、ちょっとしたゲームを楽しむ。

二人の人間が、卵を各自手に取ってぶつけ合い、

殻が壊れなかった方が勝者として、壊れた方、

つまり敗者の額に卵をぶつけるというものだ。

勝者は卵の殻が壊れるまで敗者の額に卵をぶつけるのが決まりだが、

今年は幸か不幸か、殻の固い健康な(?)卵を買ってしまったので、

負けた時、額が痛かった。

 

クリーチの方も自分で焼いてみたかったが、

コロナ禍のせいで、あまりあちこち買い物に行けないので、

焼き型を見つけることができなかった。

というわけで、来年の課題ということにし、市販品で間に合わせる。

でも、来年チャレンジできることがあるのは、何だかワクワクできていい。

 

もちろん、来年だってうまく焼けるとは限らないが、

こういうちょっとした目標が、

自宅こもりきり生活を、明るくしてくれるし、

来年への想像力を掻き立ててくれて、元気がでる。

 

本当は、この日に行われる教会の典礼も観に行きたかったが、

さすがにコロナ禍で断念。

教会の参拝者には、高齢者も多いから、

やはり感染予防の方が大事だ。

ちなみに、以下はちょっと変わった形をした、自宅近くの正教会。

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なんか積み木を重ねたようで、面白い。

 

歴史を振り返ると、ロシア革命後は、

ロシア各地でこういった教会がいくつも壊され、

イコンなどもかなり損壊を被ったらしい。

ソ連時代は、教会の壁には何も掛けられず、

建物そのものも、住宅や他の施設に転用されたりしたのだとか。

そういえば、北京でも似たような話を耳にした。

 

でも教会の建物はソ連崩壊後、少しずつ再建、修復されているし、

イコンなども、修復師の献身的な努力によって、息を吹き返したりしている。

 教会側が信者らに家に持ち帰らせたことで、奇跡的に保存されたものもあるという。

 

人々のそういうたゆまぬ努力を経て保存、修復されたイコンなどを目にすると、

若い頃から自分が、キリスト教に限らず、

古い宗教美術の作品が放っているオーラに惹かれてやまなかった理由が、

改めて分かる気がする。

つまりきっと、人が信心を糧につなげてきた時間が、

もともと神々しい存在を、

さらに別の次元の崇高さへと導いているように見えるのだ。

 

夜、星空を見上げると、

自分の存在の小ささを感じて、気が遠くなるのと同じように、

古いイコンや仏像などを見ると、

長い時間軸の中での、自分の人生のはかなさに気づく。

 

そしてきっと、伝統的な風習を守るという行為も、

それに近い意味をもつのだろう。

大昔から人々が続けてきた風習を自分も繰り返してみると、

どこか、自分の人生を尺で量っているような気がする。

そして、無限大に長い尺の中で、

自分の人生が占めている目盛りのあまりの小ささに、愕然とする。

 

そういう思いに駆られると、恐れ多いことなのかもしれないが、

キリスト教において、イエス・キリストの誕生や復活が重要な祭日となっていることにも、

人間の個々の人生史と結びついた、深い意味が感じられてくる。

 

来年のパスハまで、また一年。

やっぱり、あんまり漠然と生きていちゃだめだ。