しばらくブログが開店休業状態になってしまいました。
あまりにドラマチックなネタに遭遇すると、
慎重になって、どこから書こうかと考えあぐねてしまうのです。
手っ取り早く状況を紹介すると、昨年末に持病の足の手術をし、
右足をばっさり切りました。
戦争映画を観過ぎたせいか、
足を切るなんて、野戦病院でもできるような、
シンプルな手術かと思っていたのです。
ところがどっこい、
病院でいろいろと話を聞いてみると、
それなりにあれこれリスクがあったようで、
自分の呑気さにあきれながら、手術日の朝を迎えました。
足を切るというと、すごく大ごとのように感じる人が多いようで、
「究極の選択」と言われたりもしましたが、
長年右足の疾患に煩わされてきた者としては、
生まれてこの方、生活や旅をともにしてきた右足には悪いけれど、
正直、ちょっとすっきりした気分です。
足を切ったら、体重も減るよね、ダイエットしなくても。
なんてブラックジョークを言ったりして。
身体障碍者というカテゴリーに自分を置くことに、
今までも、あまりしっくりこなかったのですが、
じっさいに身障者「ど真ん中」になってみると、
ますますしっくりきません。
実際には、100パーセントそうなのに。
そもそも、身障者かどうか、というカテゴリーは、
人を分類するカテゴリーのうちの、たった一つに過ぎないのに、
人は、何かそれで多くのことが決まるように、考えがち。
それに、身体上の異常というものは、
誰でも多かれ少なかれ抱えていて、
それがどこから「障害」になるか、というのは、
人それぞれでもあります。
私のように、肉体労働をしておらず、
スポーツマンでもなく、
若い頃から少しずつ足の不便に慣れていて、
それを人生の一部にすることにも慣れている人間にとっては、
足を切ったとしても、拍子抜けするほど、何も生活は変わらないのです。
もちろん、義足がない間は、
生活上の不便も少なからずあるのですが、
もともとせっかちな性格でもないので、
そうイライラすることもなく、
平穏に毎日が過ぎています。
ちょっとスプラッターな話になりますが、
興味を覚えたのは、切った足の行き先。
お医者さんに「切った足を見られますか」と聞いたら、
それは無理で、自動的に供養をして火葬とのこと。
供養ということは、仏式なのでしょう。
ということは、切られた足に、信仰の自由は及ばない、ということです。
つまり、本人がクリスチャンであろうと、ムスリムであろうと、
足だけは先に極楽浄土に行ってしまう。
これは何だか興味深い。
かりに、「供養」というのが、無宗教的なものだったとしても、
信仰を選べないという点では同じです。
そうなると、ちょっと大げさに言えば、
身体を切る障害者は、身をもって
宗教の壁を越えねばならない宿命を負っているのかも。
そんなわけで、手術の後、
極楽浄土に行ったと信じたい私の足に、
覚悟をこめて、祈りを捧げたのでした。