イルクーツクの風の音 

ロシアの中部、シベリアの南、ヨーロッパ文化の辺境、アジアの片隅、バイカル湖の西にある街を拠点にしている物書きの雑記帖                  written by Asami Tada ©2020多田麻美

供養された足の話

しばらくブログが開店休業状態になってしまいました。

あまりにドラマチックなネタに遭遇すると、

慎重になって、どこから書こうかと考えあぐねてしまうのです。

 

手っ取り早く状況を紹介すると、昨年末に持病の足の手術をし、

右足をばっさり切りました。

戦争映画を観過ぎたせいか、

足を切るなんて、野戦病院でもできるような、

シンプルな手術かと思っていたのです。

ところがどっこい、

病院でいろいろと話を聞いてみると、

それなりにあれこれリスクがあったようで、

自分の呑気さにあきれながら、手術日の朝を迎えました。

 

足を切るというと、すごく大ごとのように感じる人が多いようで、

「究極の選択」と言われたりもしましたが、

長年右足の疾患に煩わされてきた者としては、

生まれてこの方、生活や旅をともにしてきた右足には悪いけれど、

正直、ちょっとすっきりした気分です。

 

足を切ったら、体重も減るよね、ダイエットしなくても。

なんてブラックジョークを言ったりして。

 

身体障碍者というカテゴリーに自分を置くことに、

今までも、あまりしっくりこなかったのですが、

じっさいに身障者「ど真ん中」になってみると、

ますますしっくりきません。

実際には、100パーセントそうなのに。

 

そもそも、身障者かどうか、というカテゴリーは、

人を分類するカテゴリーのうちの、たった一つに過ぎないのに、

人は、何かそれで多くのことが決まるように、考えがち。

 

それに、身体上の異常というものは、

誰でも多かれ少なかれ抱えていて、

それがどこから「障害」になるか、というのは、

人それぞれでもあります。

 

私のように、肉体労働をしておらず、

スポーツマンでもなく、

若い頃から少しずつ足の不便に慣れていて、

それを人生の一部にすることにも慣れている人間にとっては、

足を切ったとしても、拍子抜けするほど、何も生活は変わらないのです。

 

もちろん、義足がない間は、

生活上の不便も少なからずあるのですが、

もともとせっかちな性格でもないので、

そうイライラすることもなく、

平穏に毎日が過ぎています。

 

ちょっとスプラッターな話になりますが、

興味を覚えたのは、切った足の行き先。

お医者さんに「切った足を見られますか」と聞いたら、

それは無理で、自動的に供養をして火葬とのこと。

 

供養ということは、仏式なのでしょう。

ということは、切られた足に、信仰の自由は及ばない、ということです。

つまり、本人がクリスチャンであろうと、ムスリムであろうと、

足だけは先に極楽浄土に行ってしまう。

 

これは何だか興味深い。

かりに、「供養」というのが、無宗教的なものだったとしても、

信仰を選べないという点では同じです。

そうなると、ちょっと大げさに言えば、

身体を切る障害者は、身をもって

宗教の壁を越えねばならない宿命を負っているのかも。

 

そんなわけで、手術の後、

極楽浄土に行ったと信じたい私の足に、

覚悟をこめて、祈りを捧げたのでした。