青梅にいる以上、ぜひ行きたい、いやできれば通いたい
と思っていた場所があった。
シネマネコだ。

昭和初期に建てられた繊維試験場が
街の映画館へと生まれ変わったもので、
東京で唯一の木造建築の映画館らしい。

さっそく入り口をくぐってみると、
さすが、国の有形文化財に登録されているだけあって、
天井の骨組みなどが美しくて、風格がある。

リフォームも過不足ないもので、
階段などもすっきりしていて粋だ。

食事ができるおしゃれなスペースがあるし、

映画のラインナップも独特で、
劇映画好きも、ドキュメンタリー好きも楽しめるように工夫されている


その日、鑑賞したのは
竹内亮監督の『名無しの子』
中国残留孤児、そしてその2世、3世に
インタビューを重ねて作られた作品だ。
監督自身もショックだったようだが、
私もまず、日本や中国の今の若い人が
中国残留孤児についてほとんど知らない
ということにショックを受けた。
自分の世代は知っている、と思いたいが、
けっしてそうとは言えない。
私自身、本や断片的な情報などから、
頭では解っていたつもりでも、
やはり浅い理解に過ぎなかった
ということに気づかされた。
実感としては何も知らなかったのだ。
彼らの境遇、とくに中国と日本の間に挟まれ、
たいへんな苦労をしたということについて。
そして、映画が語りきれなかったこと、
何らかの事情から語れなかったであろうことにも、
いろいろと思いが及んだ。
残留邦人たちを襲った悲劇は、
目に見えるものばかりではない。
「空白」も悲劇を生んだ。
1960年代から80年代の間、政治的事情によって、
残留孤児の日本への帰国受け入れは阻まれた。
その長い空白が生んだひずみの大きさ。
もう少し早く帰れていたら、
彼らが日本での生活に馴染むのは、
ずっと楽だっただろう。
老年を迎え、物忘れがひどくなった残留孤児の方が、
(成人になってから覚えた)日本語はもう忘れてしまい、
(子供の頃に話していた)中国語もきちんとは話せない、
と語るのを聴いた時、
私まで一瞬、言葉を失った。
国が起こした戦争が、
普通に暮らしていた個人から
故郷を奪い、肉親を奪い、果ては言葉まで奪ったのだ。
そして思い出す。
北京でふと入った喫茶店で
東北出身のおばさんと出会った時のことを。
彼女の故郷にはたくさん残留孤児がいたそうだ。
自らも日本とゆかりがあるというそのおばさんは、
思い出すのもつらいという風に顔をゆがめ、
「彼らはとっても苦労していたよ」
としみじみ語っていた。
別の機会には、幸運にも、
北京で残留孤児2世の方と
お話ししたこともあった。
自分は残留邦人の方々とは
縁が薄いと思っていたけれど、
実は私も、細いいくつかの糸で
彼らとつながっていたのだ。
映画はほんとうに、
いろいろな発見/再発見や、
何かを想像するきっかけをくれる。
もっともっと想像しなくては。