イルクーツクの風の音 

ロシアの中部、シベリアの南、ヨーロッパ文化の辺境、アジアの片隅、バイカル湖の西にある街を拠点にしている物書きの雑記帖                  written by Asami Tada ©2020多田麻美

バイカル湖の上に立つ

少し前の事になってしまったが、

3月上旬に、かねてからの願いが叶い、

冬のバイカル湖の上に立つことができた。

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世界最深の湖の上を自分の足で歩くなんて、

チベットでチョモランマの頂を見上げた時くらいの感動だ。

 

もちろんチベットで、ヒマラヤ登山用のベースキャンプまでしか行けなかったように、

バイカル湖でも、湖のもっとも深い場所の上に立てたわけではないのだけれど。

 

ベースキャンプからチョモランマの頂を観た時、

そもそもベースキャンプ自体が

標高5200メートルというかなり高い場所にあるので、

チョモランマの頂が意外と近く見えることに驚いた。

 

ベースキャンプから山頂を見上げると、

標高8848メートルのチョモランマも、

富士山をふもとから見上げるような感じなのだ。

登ろうと思えば登れるんじゃないか、と思ってしまうほど、

その頂は近く見えた。

ほんとうはそんなはずないのに。

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バイカル湖の広くて深い湖水も、

いざその上を歩いてみると、途方もなくツルツルしていて危なっかしいものの、

何だかふとそのままどこまでも歩いて行けそうな気がした。

 

もちろん、こちらも想像の世界での話だ。

寒い季節だと、普通の装備では凍えるだろうし、

暖かくなった頃だと、氷が薄くて危険だ。

実際、私が行った時も、

アンガラ川の河口のあたりは、すでに氷が溶けていた。

 

ピークは時に、たどりつくのが簡単そうに見えたりする。

でも、実際はピークが見えてからがなかなかたいへん。

そういうことって、人生ではよくある。

 

それにしても、広々とした凍った湖面と遠方の山を見渡していると、

南極にいるような錯覚に襲われる。

もちろん、南極はおろか北極にさえ行ったことはないのだが、

『南極物語』から映画館体験が始まった映画ファンとしては、

氷のかたまりをばらまいて、ペンギンを連れてきたら、

南極を舞台にした映画のロケに使えるんじゃないか

と、つい勝手に盛り上がってしまった。

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黒澤明の名作、『デルス・ウザーラ』では、

主人公たちが川面で道に迷った時、

吹雪の中、必死で藁をかき集めて夜を明かすが、

バイカルの湖面には本当に文字通り、氷しかない。

つまり、タローとジローのサバイバルを追体験するのに、

ここほどうってつけの場所はないわけだ。

 

さらに興味がつきないのは、見えそうで見えない湖の下。

バイカル湖版ネッシーの伝説は気になるし、

財宝が沈んでいるという話も聞く。

脚本家のヴァンピーロフなど、

バイカル湖で溺死している人も多いことを思うと

幽霊さんもいろいろと、いらっしゃるかも。

世界最古の湖というのが本当なら、霊のバラエティも豊富なはず。

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でも、ダイビングして確かめたいかと言うと、いや、

謎は謎のままが面白いんじゃ?と思ってしまう。

寒がりの言い訳というのも多分にあるが、それだけじゃない。

未知の世界、空想を誘う、手つかずの世界が、

地球上にまだまだたくさんあっていいはずだから。

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もちろん、バイカル湖の水質の悪化が問題視されている昨今は、

「そのままに」という願いさえ、

ぜいたくで独りよがりなものではあるのだけれど。

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